「命」の軽重とは。。。

20/03/09/
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まいどです!m(__)m

 

昨年千葉県で起きた小4女児虐待死事件について検察側の求刑がでましたね。

「懲役18年」。

これが、「重い」のか「軽い」のか。。。ついつい外野のオイラはそんなことを考えてしまう。。

そしてその「軽重」は、被告人に対してなのか?女児に対してなのか・・・。?

 

オイラ、この事件が報道されたとき、全くの他人なのに何故か報道を見て涙が流れた。。。

(心愛ちゃん、さぞ、辛かったろう・・・痛かったろう・・・苦しかったろう)と感じてたらたまらなくなってね。。。

 

オイラも小学校低学年ぐらいの時は、おふくろによく竹刀で(当時剣道をやってたので)ぶっ叩かれたわ!笑

あの時代・・・1970年代ってのは、そんなことが普通で、当然、「悪いことをしたから怒られる」ワケで。。。

現代だったらすぐ通報だろうね!「虐待です~~~」って。(笑)でもね。親の必死さ=つまり「まっとうな人間」に育て上げるためって

のが「愛情」として伝わるワケで。。だから「死ぬまで」「瀕死の状態になるまで」「病院に連れて行かなけらばならない」なんてところまでは

いかないわけよ。。。自分の子供の一生を、その親なりにしっかり考えてるワケよ。「人様にだけは迷惑かけないで」ってね!

だから「死ぬ・殺す」ってとこまで行かないわな。

現代はいろいろな「価値観」が認められる世の中になったので、「○○が正解!」ってことはないけど、これは無いわな。

自分の子供が「死ぬ」って!

 

ここ最近のこういった「虐待事件」ってのは、オイラ達の時代の「子育ての価値観」とは違うから、

まぁ~~酷いもんだわな。。

 

でね。こうした事件で検察の「求刑」が報道されると、やはり「軽い」だの「重い」だのが論評されるわけよ。。。

きっと、、、10歳の「生命」が絶たれたことへの「軽重論」だと思う。いや、そうであってほしいな。

「犯した罪」にではなくね。

 

私見なんだが、、、、。

豊かなこの国で、自分以外の人の「生命(いのち)」を、自分自身の価値観によって絶ってしまったら、

やはり自分の「生命」で償うべきなのではないだろうか・・・?

懲役刑を経て、反省し、社会生活を営むことで、「十字架を背負って生きていく」ことで「償う」ことになるのか?

確かに、「人を殺めてしまった」こともいろんな要因・情景があるだろう。一概には語ることはできないが、

それでもこの事件に関しては、やはりその被告人である父親への求刑は「軽い」と思ってしまう。

 

オイラ達「外野」は、当事者ではないので報道されている情報のみになってしまう。。。これは「公平」を欠いていることは

重々承知しているが、、、。

 

さだまさしの「償い」という歌がある。有名な曲で知ってる方も多いだろう。

この曲、ゆうちゃんという人が、仕事で疲れて車を運転してた時に、ある人をはねて死なせてしまい、その奥様への「贖罪」を

描いた名曲なんだが、普通に歌詞を見て曲を聴いていると、その「ゆうちゃん」の視点からの曲になってるんだが、実はこの曲、

被害者遺族の話から出来上がっていることはご存知???

歌詞の中で「償いきれるはずもないがせめてもと、毎日あの人に仕送りをしている」って部分がある。

そうなんだよ!人の「生命」を奪ってしまったら「償い」きれないんだよ。。。それでも「償おう」と一生懸命「生きる」。

きっと「償い」には、ゴールは無いんだと思う。これが「十字架を背負う」ってことなのではないだろうか・・・?

そして「生命(いのち)」とはそういうものではなかろうか・・・。

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https://www.youtube.com/watch?v=MzNeMZqNwL4

 

「人間って哀しいね。だってみんな優しい。それが傷つけあって庇いあって」

なぜかこの歌詞の部分でいつも涙が溢れます。。。

 

これからの時代、もっともっと生きていくことが難しい時代になっていくのかな・・・。

 

オイラ達がガキの頃のように、子供たちが貧しくも天真爛漫に外で日が暮れるまで笑って遊んでる風景を

見ることができるのかな・・・。